自我と無我、アートとデベロップ
いつものボードゲームデザインの記事です。
そしていつも通りのハイコンテクスト系なのである程度の前提知識が必要です。
またいつものことですが私の言うモダンボードゲームの世界観を含みます。
今回の内容は客観的な批評モデルに近づくこと、実践としてテストプレイのレビューに当てれると思います。
前置きとして、この文章では自我≒アートと無我≒デベロップとして扱っていると告げます。
とりあえず自我と無我の世界観をちょっとします。
自我の探求はヒンドゥー教の領域で自我を極めまくると真我になり最強という信仰があり、無我の探求は仏教の領域で自我を煩悩と捉えて抹殺することで無我になり悟れるという信仰があります。
つまりヒンドゥー教と仏教で自我は対立する解釈になっていて異なる世界観があります。
もう一方のアートとデベロップの世界観については別記事にてご参照ください。
また今回の話の研究度として、こうである気がする、こうすると良さそう程度の過程に留まるものです。
ただある程度の実践投入はしていて、よい感じに機能してる部分もあると思ってます。
結論から言えば自我(アート)と無我(デベロップ)どっちも超重要と言うことと、
両立するの超難しいってことと、もしかして攻略があるんじゃね?ってことです。
それでなんですけど、とりあえずまだ怒らないでください。
アート最高って話は後でします。
まず何に問題意識があるのかと言うと「好みの問題」ってのやめませんか?と言うことです。
結局、結論が好みの問題に着地するのであれば、それ議論する意味ありますか?って論法で、ここで重要なのは好みの問題という概念は存在しないとか禁止するってことではなく先読みして回避できないか?と言うことです。
むしろ好みの問題は確実に存在していて、仮に好みの問題が結論なのに禁止してしまうと、結論が言えない無限好みバトルが完成します。
じゃあ、どうするのかと言うと自問自答してはどうかと考えます。
自分が指摘や意見や感想を言う前に一度これ好みの問題じゃね?と自問自答して、そうであればやめてしまう。
そうすることで回避できるのではないか。
しかし、これだと他者に干渉できないので、他者には目の前の宗教論争を収めるために好みの問題だよねって早い段階で諭せないかと考えています。
ただ、ある程度のリテラシーを含むと言うか、面子によっては機能しないと言うか、
むしろ火に油を注ぐことになってしまいかねないので面子が重要とか用法が重要とかもありそうです。
それで、好みの問題って何者だ?ってことも考察したいのですが、これって美学であってアートだよなと思います。
「シンプルで奥が深い」が必ずしも面白いと言うことではないと言及されがちですが、確かにその通りだけどシンプルで奥が深いには何か動機が感じられます。
だからこれは美的感覚であり、確かに面白いとは限らないけど美しくはあるよねって話だと思います。
次に美学の問題認識なのですが、美学なので当然に対立する美が存在してしまい、なので複雑さもまた美しいと感じることができます。
シンプルでもよいし、複雑でもよい。
みんな違って、みんないい。
つまり、何でもいいんだよって話で、何でもいいことを議論したって結論などない。
これが好みの問題の本質じゃないかなと思います。
なので、立ち止まってデベロップに集中するには一旦美学あるいはアートを排除して無我の心境で取り組む必要があるのではないかと感じます。
ただ、また真逆のことを言ってしまうんですけど、やはりアート的なメンタルがないと制作が前に進まない気もしてしまいます。
何故なら、何でもよい領域が確実に存在していて、最適解のないそれには無我は無力で意思決定できないからです。
なので、自我によるアートからの創造や選択が必要になる場面が必ずあると思います。
だから、自我で創造して、立ち止まって無我でデベロップする。
「私は」ですが、この感覚が交互ある気がしています。
しかし、だからといって気軽に自我と無我を入れ替えてボードゲーム作りましょうとは言えなくて、
何故なら、私自身がこのメンタルモデルの入れ替えに強烈な苦痛を感じているからです。
なので、この苦しさから逃れたい、
あるいは人にもっと簡単に進められるやり方があって欲しいと思いました。
そして、ふと考えました。
実は自我人間と無我人間でタッグを組めば精神負荷を抑えて両立できるのではないかと。
自我人間が世界を創造して、無我人間がデベロップで質を高める。
もしかして、バランスのよい共作ってそういう感じなんじゃないか?と考えを巡らせます。