もしも、楽しさが切り離されているのなら
この記事はBoard Game Design Advent Calendar 2020の24日目として投稿いたしました。
今年も濃密な記事が多く大変勉強になりました。
また毎年楽しい場を提供してくださる主催者のi was game 上杉様にはこの場で感謝申し上げます。
そして今回の私の記事は前回(2019)に引き続きモダンボードゲームの延長の話をします。
ここで言うモダンボードゲームとは私個人が感じる現代ボードゲームの抽象像で、テーマとシステムの両方を尊重するユーロゲーとアメゲーが融合したものを指します。
詳しくは前回記事をご覧いただけると幸いです。
それではよろしくお願いします。
その前に
12月に入り、各種ボードゲーム関連のアドベントカレンダーがあったことや、うちばこや様のキックスターター成功に伴う記事などいくつか拝読してよい刺激を受けました。
冒頭から本文を解説してしまうのはどうかとも思いましたが、本文が主張することやその答えに近づくものなど上述の記事から読み解けるものがありお力を借りたいと感じました。
本文の概要は意味深にプリミティブとその応用力の高さを言及し、何か裏で力学が働くことを暗示させる内容になっています。
何故意味深かというと私のボードゲーム制作スタンスとして開示する情報を取捨選択しているところがあるからです。
これは自己のオリジナリティと技術の優位性を担保するために行っていて、例えるなら化学品メーカーが製造レシピを開示しないのに似ているかもしれません。
製品開発には大量のリソースが注ぎ込まれていて利益を守る構造が働くことはありえます。
技術的に距離を置けば自分の作品を真似ることは難しくなり、またあまりに支配的な手法を開示してしまえば全体が統一的な影響を受けて多様さを見失う可能性も感じます。
皆それぞれが独自研究を探求し、たまにすれ違う交差点で握手をしたり答え合わせをしたりしてまた自分の道に帰っていくような様々な作家や作品に巡り合いたいと感じています。
さて唐突ですがプリミティブの言及で以下の記事に唸りました。
梟老堂様の分解すると言う考えは物凄く好きで、そもそも私がメカニクスと言う単位に疑問を持っていることもあります。
私の考えだとメカニクスAとメカニクスBは全く別物とされているが実は楽しさの原因は共通するXにあると言うような見方をしています。
グルームヘイブン作者のブログにあったダイス絶対殺すマン宣言をした後に、6面ダイスと1~6の数字カード山札をどっちが面白いかバトルさせる実験などはかなり好きでした。(ダイスが勝ちました。。)
楽しさを考察する上でメカニクスが本当に適切な単位なのか今一度考えてもよいのではないかと感じています。
BGDACの記事でなくて恐縮ですがアクアガーデンの戸塚様の記事ではまさしくプリミティブに言及されていて何か感動がありました。
それとは無関係に3千万円を超えるキックスターターを成功させたことおめでとうございます。
記事中の企画の主体にも補助にもなれる姿勢は自分にないもので羨ましさがありました。
と言うことで、それでは本題に戻ろうと思います。
楽しさの再現性
今現在で世の中には奇跡としか思えない面白いボードゲームが山ほどあります。
それ自体はボードゲームを嗜む私にとって喜ばしいことですが、その中でも理解できないことがあります。
それは、奇跡のような面白さを再現し続けるデザイナーがいることについてです。
その人物がスーパー天才なのか、あるいはハイパーラッキーマンなのか。
今回は私にとっての仮説とロマンの話をします。
もし奇跡がコントロール可能であれば、あらゆるデザイナーがマッチョになれます。
そうでないならオカルトであり、そんなことを考えるのは少し愚かかもしれません。
この仮説のきっかけを前回(2019)の自分の記事「モダンボードゲームの挑戦」から振り返ります。
前回では「楽しさ」の発見を先に済ませておくと後々が楽だと説きました。
しかし、この書き方はやや不親切があったかもしれません。
何故なら、あたかも毎回の制作で全てがリセットされているように読めそうだからです。
もちろん違います。
一度得た知見は失敗も含めてデザイナーの中に蓄積されます。
だから、ある程度の試行は回を増すごとに省略される見込みがあります。
今回見送ったアイディアもいつかの将来に役立つかもしれません。
様々な「楽しさ」の引き出しが増えれば様々な挑戦ができたり、習熟することで「楽しさ」を凝縮できるかもしれません。
もしもの話があります。
「楽しさ」の条件を最小に分解出来たなら、それはかなり有用かもしれません。
ある案として「ワーカープレイスメントとデッキビルディング」のゲームを考えてたとします。
テストした結果、「ワーカプレイスメント」と「デッキビルディング」は別々に分解しても楽しいと気づけました。
さらに「デッキビルディング」を分解してテストした結果、「山札からカードを引く」だけで楽しいと気づけました。
こうやって「楽しさ」の原因を分解し続ければ応用範囲が広がっていきます。
既に「山札からカードを引く」はかなり応用が利きそうです。
仮説の域を出ませんが、分解が最小に近づくと「楽しさ」の条件を「コンポーネント」から切り離せるかもしれません。
もしそうであれば「コンポーネント」を必要としない「楽しさ」を操れるかもしれません。
いや、少し訂正します。
「コンポーネント」はやはり欠かせません。(ボードゲームなので)
代わりに「コンポーネント」を自在に入れ替えれるようになりそうです。
ソースと素材
あるとき、イタリア料理とフランス料理の違いが気になり調べたことがあります。
そのとき知ったニワカの知識です。
フランス料理の祖先はルネサンス期のイタリア料理にあったようです。
ただ、残念なことにフランスは内陸にあったため運搬距離のせいでイタリアより魚介の鮮度が落ちてしまったそうです。
だから、工夫がありました。
フランス料理の祖先では魚介から作ったソースをかけることで魚介の味を補っていたらしいのです。
現代の比較は難しそうですが祖先であれば私でも何か分かりそうな気がします。
それはソースが頼りかどうかです。
「切り離された楽しさ」とは存在するのであればソースのようなものだと考えます。
もはやフランス料理の調理法ではないけど品の無い見方をすれば、「上手いソースをかけとけば何でも上手い。」と捉えれるかもしれません。
しかし、そう述べてしまうと素材派からソースが邪見にされかねない不安があります。
ソースにも美学があります。
上手いソースもそれを作れることも優れたことだと思います。
ソース化した楽しさはあらゆるものにかけれます。
楽しさの担保はないが、魅力的な世界観。
楽しさの担保はないが、個性的なメカニズム。
それらの優れた一面を持つが惜しい素材をソースが覚醒させてくれます。
だから私はソースに焦がれます。
(個人的に押井守監督の演出万能論もソースに近い気がしています。)
眠れるアーティストたち
ソースの術を習得したからと言ってデザイナーは無限にゲームを作れるのかと言うとそうでもないと思っています。
「創造的なセンス」と「再現可能な技術」を習得し発揮するのは異なる能力だと考えているからです。
これは以前の自分の記事「自我と無我、アートとデベロップ」で近いものを述べています。
そこでは1人の人物が苦心して相反する能力を発揮するか、あるいは複数の人物で能力を補完し合うことができないかと論じました。
そして、アイディアは消耗品であると考えていることもあります。
多くの場合アイディアは何度も同じことをすれば価値が薄れていくのに、一度ひねり出すと次を中々出せません。
ここでもう一つ仮説があります。
デザイナーではない、一般的なボードゲームのギークたちの中にも深いアイディアが眠っている可能性です。
これには新たなロマンがあります。
彼らはデザイナー以上のインプットを自発的にたくさん行っています。
だから、内側で優れたアイディアが眠っているかもしれません。
アイディアはカッコよければ十分によいです。
何故なら楽しさはソースの術者と手を組めば補えるからです。
ギークが胸に手を当てアイディアを見つけ出し、自問自答します。
本当に見せてもよいか?誰に?いくらで?共作にする?
しかしソースとアイディアがトレードできるほど釣り合うのかよく分かりません。
(私はアイディアの方を高く見積もりますが。)
ただ、それでも興味深い手法の糸口として可能性に期待します。