エンターテイメントを語りたい
まず私は人類絶望論者である。
現代(とっくの昔に)ではテクノロジーが人の能力を凌駕していてほとんどの人は不要な存在として生まれてくる。
しかし周囲の人が人権を尊重した結果、あるいは楽観的希望、もしくは人生の無意味さに気づいてないため絶望の存在を教えられることは殆どない。
我々は潜伏した絶望の発症を防ぐため薬を投与し続けなればならない。
その薬とは幸福である。
幸福には2つあり、1つは希望。
もう1つがエンターテイメントである。
実のところ人生に必要な幸福の総量は人生観によるところがあると思っていて、もし社会(もしくは持てる義務者)が絶望を対策しようとするなら人生に必要な幸福総量を軽減する思想、もしくは社会の絶望力に比例した希望とエンターテインメントを提供したらよいのではないかと考えている。
当たり前ではあるが我々は3食、温かくうまい飯を食べる必要はない。
何故なら必要な栄養素を接種できればよいからだ。
では何を接種しているのかと言えばもちろんエンターテイメントである。
我々は絶望を発症しないためにエンターテイメントを接種し続けなければならない。
なぜ社会に人生に娯楽が必要かと問われたら、絶望しないためと説きたいと思う。
シンプルで奥が深いはありえるか?
ありえるし、ありえない。
主観的な意味や尺度を持つバズワードには慎重になった方がよいと思っている。
シンプルも奥が深いも主観的な尺度なので人によりまちまちでその領域が重なる人もいればそうでない人もいる。
例えば私の場合、笑うセールスマンを見ながら昭和のダサいネオン街が出てきてコレかっこいいな。。とか思える。
ダサいとかっこいいの矛盾した領域が重なる。
何故なら主観的な尺度だから私の中ではそうなのだ。
だから主観的に多様な意味や尺度を持つバズワードの扱いは難しい。
私の中でできればこうでありたいと言うのがある。
バズワードを使うとき受け止めるときは軽率でよい。
ただし意味や尺度の定義を他人に力説して強要しない方がよい。
少なくともその説明が必要なときは、どう言うパラダイムの中でと前置きが欲しいと思っている。
もちろん理性より直感が先走るときがあるので、とっさに自分がそうできないことはむず痒さがある。
オールモスト(だいたい合っている)のボードゲームデザイン
完全とオールモスト(だいたい)の葛藤
オールモスト(almost)とは、だいたいのと言う意味を持つ言葉だ。
webの世界でhtml5が再設計を試みたときこれまでのhtmlと混在するカオスが生まれた。
webは寛容であり互換性を重んじた。
不完全なスクリプト言語のjavascriptは完全なオブジェクト指向の2.0に生まれ変わろうとしたがダグラスクロックフォードの力説により、互換性を重んじる由緒正しいjavascriptの派生へと回帰した。
カオスなwebをレンダリングするwebブラウザーにはオールモストなレンダリングモードを持っている。
多少の構文が間違っていても意味を解釈できればだいたいでレンダリングをしてくれる。
ソフトウェア開発では完全を重んじるプリミティブな思想と、だいたいを許容するスクリプティングな思想が集団または個人の内面で葛藤している。
完全か寛容か、どちらの設計思想が適切かはプロジェクトごとの性質による。
その判断の多くはデベロッパーのセンスに委ねられる。
ボードゲームデザイナーは完全であるべきか?
しばしば潔癖なデザイナーや批評家からボードゲームは完璧であるべきだと聞く事がある。
完璧にできないならゲームを小さくすべき。
デザイナーは実装を事細かにすべて説明できなければゲームは失敗している。
果たして、それは本当だろうか?
あるいは事実、そうであろうか?
完全と寛容は内面にどちらか1つしか維持できないと言うものではない。
ときには潔癖症になり、ときには鈍感になることができる。
完璧に拘りすぎることは臆病になり選択肢を狭め、心身を硬直させる。
時として正解が明らかではないことでも、だいたいで前に進めることは勇気へと繋がる。
しかし、寛容を許容しすぎることは目を曇らせ正しさへの追及を怠り、進歩のない駄作を乱造させる。
時として立ち止まろうとも正解を模索する姿勢は成長に繋がる。
完全と寛容は単一の信念ではなく出しどころがありセンスとバランス感覚を必要とする。
デザイナーズデザインとファンデザイン
デザイナーがこう遊んで欲しいとデザインしたものをデザイナーズデザインと呼ぶこととして、反対の性質にあたるデザイナーの意図がないまたはデザイナーの意図に反してプレイヤーが勝手に遊び方を見つけるものの呼び名が欲しいと思った。
ぼんやりとファンデザインはどうかと考えた。
ファンは2つの意味にかけていて、意図が足りておらずデザイナーとして未熟で愛好家に過ぎないと言う意味のファン。
ゲームの愛好家であるファンがデザイナーの創造を圧倒する遊び方を見つけてしまった。である。
ふとゲームが100%デザイナーズデザインに染められていることがよいことなのだろうかと考えた。
デザイナーは完璧でないし完璧なゲームなどないと考えるとそもそも100%のデザイナーズデザインなど存在しないと考えられる。
または強気なプレイヤーや批評家はゲームを破壊してデザイナーを圧倒したいと考えていて、その余地があることは彼らを満足させることができる。
もちろん、完璧でなくともまずはしっかりと作られたゲームでなければ話にならない。
だから、オールモスト(だいたい合っている)の姿勢は丁度よいのではないかと考えた。
完璧でなくてもよいことはデザイナーの労力と気持ちを和らげ、プレイヤーと批評家はその隙をついて欲望を発散する。
ではこのオールモストの思想が完璧であるか?
もちろんオールモストにすぎない。
ボードゲームのゲーム性について考えてみた
ゲーム性について
→バズワード
→今の自分の考え
→考えを改めることもある
ボードゲーム(またはその認知/評価)の構成要素
→エンタメ性とゲーム性の複合物
→物質としてのボドゲの定義は無意味だと思うのでしない
→ここではボドゲを構成要素の入れ物として扱う
→自分はor条件でどちらか満たしていれば一定水準に認知
→人によってand条件だったりゲーム性必須とかありえる
エンタメ性とは
→面白いかどうか
ゲーム性とは
→ゲームたるか
→ゲームたるからと言って面白いわけではない
→エンタメ性とゲーム性が交わるところに美徳(芸術点)
ゲーム性の構成要素
→判断要素と攻略要素の複合物
判断要素の例
→読み合い(正解がない/人読み)
→時間制限/リアルタイム性(思考&反射速度)
→技術化(入力を正しくできるか/手続きを正しくできるか)※ソリティアな判断
攻略要素の例
→セオリー化(暗記/知識)できる
→データ/符号化(人間で認識操作が容易な情報)できる(データ/符号知覚者と無知覚者で見えるゲームが全然違う)
→技術化できる(入力を正しくできるか/手続きを正しくできるか)※セオリー化データ/符号化も技術化の一種
純粋なじゃんけん
→判断はあるが攻略がない
→この場合ゲーム性の半分はあるのでゲーム性が弱いぐらいの表現が好き
純粋な〇×ゲーム
→攻略(定石)はあるが判断がない
→前述の手続きを正しくできるかにて判断要素があるとも言えるが純粋にするため無視する(簡単すぎる)
純粋なLCRダイス
→ゲーム性はないがエンタメ性はあるので自分は一定水準に認知可能
判断と攻略の性質変異
→初見だと判断だが理解が進むにつれ攻略に変異する要素もある
→反対に完全な攻略を施しても完全な判断から変わらない要素もある(例:読み合い)
ゲーム性の落とし穴
→一概にゲーム性が高いことが正解ではない
→個人的にはエンタメ性の方が大事
→だけどゲームという媒体である以上はゲーム性は無視しないほうがよい
→別軸のエンタメ性の線と交わっているかも気にする(必須ではない)
もしも、楽しさが切り離されているのなら
この記事はBoard Game Design Advent Calendar 2020の24日目として投稿いたしました。
今年も濃密な記事が多く大変勉強になりました。
また毎年楽しい場を提供してくださる主催者のi was game 上杉様にはこの場で感謝申し上げます。
そして今回の私の記事は前回(2019)に引き続きモダンボードゲームの延長の話をします。
ここで言うモダンボードゲームとは私個人が感じる現代ボードゲームの抽象像で、テーマとシステムの両方を尊重するユーロゲーとアメゲーが融合したものを指します。
詳しくは前回記事をご覧いただけると幸いです。
それではよろしくお願いします。
その前に
12月に入り、各種ボードゲーム関連のアドベントカレンダーがあったことや、うちばこや様のキックスターター成功に伴う記事などいくつか拝読してよい刺激を受けました。
冒頭から本文を解説してしまうのはどうかとも思いましたが、本文が主張することやその答えに近づくものなど上述の記事から読み解けるものがありお力を借りたいと感じました。
本文の概要は意味深にプリミティブとその応用力の高さを言及し、何か裏で力学が働くことを暗示させる内容になっています。
何故意味深かというと私のボードゲーム制作スタンスとして開示する情報を取捨選択しているところがあるからです。
これは自己のオリジナリティと技術の優位性を担保するために行っていて、例えるなら化学品メーカーが製造レシピを開示しないのに似ているかもしれません。
製品開発には大量のリソースが注ぎ込まれていて利益を守る構造が働くことはありえます。
技術的に距離を置けば自分の作品を真似ることは難しくなり、またあまりに支配的な手法を開示してしまえば全体が統一的な影響を受けて多様さを見失う可能性も感じます。
皆それぞれが独自研究を探求し、たまにすれ違う交差点で握手をしたり答え合わせをしたりしてまた自分の道に帰っていくような様々な作家や作品に巡り合いたいと感じています。
さて唐突ですがプリミティブの言及で以下の記事に唸りました。
梟老堂様の分解すると言う考えは物凄く好きで、そもそも私がメカニクスと言う単位に疑問を持っていることもあります。
私の考えだとメカニクスAとメカニクスBは全く別物とされているが実は楽しさの原因は共通するXにあると言うような見方をしています。
グルームヘイブン作者のブログにあったダイス絶対殺すマン宣言をした後に、6面ダイスと1~6の数字カード山札をどっちが面白いかバトルさせる実験などはかなり好きでした。(ダイスが勝ちました。。)
楽しさを考察する上でメカニクスが本当に適切な単位なのか今一度考えてもよいのではないかと感じています。
BGDACの記事でなくて恐縮ですがアクアガーデンの戸塚様の記事ではまさしくプリミティブに言及されていて何か感動がありました。
それとは無関係に3千万円を超えるキックスターターを成功させたことおめでとうございます。
記事中の企画の主体にも補助にもなれる姿勢は自分にないもので羨ましさがありました。
と言うことで、それでは本題に戻ろうと思います。
楽しさの再現性
今現在で世の中には奇跡としか思えない面白いボードゲームが山ほどあります。
それ自体はボードゲームを嗜む私にとって喜ばしいことですが、その中でも理解できないことがあります。
それは、奇跡のような面白さを再現し続けるデザイナーがいることについてです。
その人物がスーパー天才なのか、あるいはハイパーラッキーマンなのか。
今回は私にとっての仮説とロマンの話をします。
もし奇跡がコントロール可能であれば、あらゆるデザイナーがマッチョになれます。
そうでないならオカルトであり、そんなことを考えるのは少し愚かかもしれません。
この仮説のきっかけを前回(2019)の自分の記事「モダンボードゲームの挑戦」から振り返ります。
前回では「楽しさ」の発見を先に済ませておくと後々が楽だと説きました。
しかし、この書き方はやや不親切があったかもしれません。
何故なら、あたかも毎回の制作で全てがリセットされているように読めそうだからです。
もちろん違います。
一度得た知見は失敗も含めてデザイナーの中に蓄積されます。
だから、ある程度の試行は回を増すごとに省略される見込みがあります。
今回見送ったアイディアもいつかの将来に役立つかもしれません。
様々な「楽しさ」の引き出しが増えれば様々な挑戦ができたり、習熟することで「楽しさ」を凝縮できるかもしれません。
もしもの話があります。
「楽しさ」の条件を最小に分解出来たなら、それはかなり有用かもしれません。
ある案として「ワーカープレイスメントとデッキビルディング」のゲームを考えてたとします。
テストした結果、「ワーカプレイスメント」と「デッキビルディング」は別々に分解しても楽しいと気づけました。
さらに「デッキビルディング」を分解してテストした結果、「山札からカードを引く」だけで楽しいと気づけました。
こうやって「楽しさ」の原因を分解し続ければ応用範囲が広がっていきます。
既に「山札からカードを引く」はかなり応用が利きそうです。
仮説の域を出ませんが、分解が最小に近づくと「楽しさ」の条件を「コンポーネント」から切り離せるかもしれません。
もしそうであれば「コンポーネント」を必要としない「楽しさ」を操れるかもしれません。
いや、少し訂正します。
「コンポーネント」はやはり欠かせません。(ボードゲームなので)
代わりに「コンポーネント」を自在に入れ替えれるようになりそうです。
ソースと素材
あるとき、イタリア料理とフランス料理の違いが気になり調べたことがあります。
そのとき知ったニワカの知識です。
フランス料理の祖先はルネサンス期のイタリア料理にあったようです。
ただ、残念なことにフランスは内陸にあったため運搬距離のせいでイタリアより魚介の鮮度が落ちてしまったそうです。
だから、工夫がありました。
フランス料理の祖先では魚介から作ったソースをかけることで魚介の味を補っていたらしいのです。
現代の比較は難しそうですが祖先であれば私でも何か分かりそうな気がします。
それはソースが頼りかどうかです。
「切り離された楽しさ」とは存在するのであればソースのようなものだと考えます。
もはやフランス料理の調理法ではないけど品の無い見方をすれば、「上手いソースをかけとけば何でも上手い。」と捉えれるかもしれません。
しかし、そう述べてしまうと素材派からソースが邪見にされかねない不安があります。
ソースにも美学があります。
上手いソースもそれを作れることも優れたことだと思います。
ソース化した楽しさはあらゆるものにかけれます。
楽しさの担保はないが、魅力的な世界観。
楽しさの担保はないが、個性的なメカニズム。
それらの優れた一面を持つが惜しい素材をソースが覚醒させてくれます。
だから私はソースに焦がれます。
(個人的に押井守監督の演出万能論もソースに近い気がしています。)
眠れるアーティストたち
ソースの術を習得したからと言ってデザイナーは無限にゲームを作れるのかと言うとそうでもないと思っています。
「創造的なセンス」と「再現可能な技術」を習得し発揮するのは異なる能力だと考えているからです。
これは以前の自分の記事「自我と無我、アートとデベロップ」で近いものを述べています。
そこでは1人の人物が苦心して相反する能力を発揮するか、あるいは複数の人物で能力を補完し合うことができないかと論じました。
そして、アイディアは消耗品であると考えていることもあります。
多くの場合アイディアは何度も同じことをすれば価値が薄れていくのに、一度ひねり出すと次を中々出せません。
ここでもう一つ仮説があります。
デザイナーではない、一般的なボードゲームのギークたちの中にも深いアイディアが眠っている可能性です。
これには新たなロマンがあります。
彼らはデザイナー以上のインプットを自発的にたくさん行っています。
だから、内側で優れたアイディアが眠っているかもしれません。
アイディアはカッコよければ十分によいです。
何故なら楽しさはソースの術者と手を組めば補えるからです。
ギークが胸に手を当てアイディアを見つけ出し、自問自答します。
本当に見せてもよいか?誰に?いくらで?共作にする?
しかしソースとアイディアがトレードできるほど釣り合うのかよく分かりません。
(私はアイディアの方を高く見積もりますが。)
ただ、それでも興味深い手法の糸口として可能性に期待します。
自我と無我、アートとデベロップ
いつものボードゲームデザインの記事です。
そしていつも通りのハイコンテクスト系なのである程度の前提知識が必要です。
またいつものことですが私の言うモダンボードゲームの世界観を含みます。
今回の内容は客観的な批評モデルに近づくこと、実践としてテストプレイのレビューに当てれると思います。
前置きとして、この文章では自我≒アートと無我≒デベロップとして扱っていると告げます。
とりあえず自我と無我の世界観をちょっとします。
自我の探求はヒンドゥー教の領域で自我を極めまくると真我になり最強という信仰があり、無我の探求は仏教の領域で自我を煩悩と捉えて抹殺することで無我になり悟れるという信仰があります。
つまりヒンドゥー教と仏教で自我は対立する解釈になっていて異なる世界観があります。
もう一方のアートとデベロップの世界観については別記事にてご参照ください。
また今回の話の研究度として、こうである気がする、こうすると良さそう程度の過程に留まるものです。
ただある程度の実践投入はしていて、よい感じに機能してる部分もあると思ってます。
結論から言えば自我(アート)と無我(デベロップ)どっちも超重要と言うことと、
両立するの超難しいってことと、もしかして攻略があるんじゃね?ってことです。
それでなんですけど、とりあえずまだ怒らないでください。
アート最高って話は後でします。
まず何に問題意識があるのかと言うと「好みの問題」ってのやめませんか?と言うことです。
結局、結論が好みの問題に着地するのであれば、それ議論する意味ありますか?って論法で、ここで重要なのは好みの問題という概念は存在しないとか禁止するってことではなく先読みして回避できないか?と言うことです。
むしろ好みの問題は確実に存在していて、仮に好みの問題が結論なのに禁止してしまうと、結論が言えない無限好みバトルが完成します。
じゃあ、どうするのかと言うと自問自答してはどうかと考えます。
自分が指摘や意見や感想を言う前に一度これ好みの問題じゃね?と自問自答して、そうであればやめてしまう。
そうすることで回避できるのではないか。
しかし、これだと他者に干渉できないので、他者には目の前の宗教論争を収めるために好みの問題だよねって早い段階で諭せないかと考えています。
ただ、ある程度のリテラシーを含むと言うか、面子によっては機能しないと言うか、
むしろ火に油を注ぐことになってしまいかねないので面子が重要とか用法が重要とかもありそうです。
それで、好みの問題って何者だ?ってことも考察したいのですが、これって美学であってアートだよなと思います。
「シンプルで奥が深い」が必ずしも面白いと言うことではないと言及されがちですが、確かにその通りだけどシンプルで奥が深いには何か動機が感じられます。
だからこれは美的感覚であり、確かに面白いとは限らないけど美しくはあるよねって話だと思います。
次に美学の問題認識なのですが、美学なので当然に対立する美が存在してしまい、なので複雑さもまた美しいと感じることができます。
シンプルでもよいし、複雑でもよい。
みんな違って、みんないい。
つまり、何でもいいんだよって話で、何でもいいことを議論したって結論などない。
これが好みの問題の本質じゃないかなと思います。
なので、立ち止まってデベロップに集中するには一旦美学あるいはアートを排除して無我の心境で取り組む必要があるのではないかと感じます。
ただ、また真逆のことを言ってしまうんですけど、やはりアート的なメンタルがないと制作が前に進まない気もしてしまいます。
何故なら、何でもよい領域が確実に存在していて、最適解のないそれには無我は無力で意思決定できないからです。
なので、自我によるアートからの創造や選択が必要になる場面が必ずあると思います。
だから、自我で創造して、立ち止まって無我でデベロップする。
「私は」ですが、この感覚が交互ある気がしています。
しかし、だからといって気軽に自我と無我を入れ替えてボードゲーム作りましょうとは言えなくて、
何故なら、私自身がこのメンタルモデルの入れ替えに強烈な苦痛を感じているからです。
なので、この苦しさから逃れたい、
あるいは人にもっと簡単に進められるやり方があって欲しいと思いました。
そして、ふと考えました。
実は自我人間と無我人間でタッグを組めば精神負荷を抑えて両立できるのではないかと。
自我人間が世界を創造して、無我人間がデベロップで質を高める。
もしかして、バランスのよい共作ってそういう感じなんじゃないか?と考えを巡らせます。