たまにやるならこんなボードゲーム

休日をゆっくり過ごしたい。

オールモスト(だいたい合っている)のボードゲームデザイン

完全とオールモスト(だいたい)の葛藤

オールモスト(almost)とは、だいたいのと言う意味を持つ言葉だ。
webの世界でhtml5が再設計を試みたときこれまでのhtmlと混在するカオスが生まれた。
webは寛容であり互換性を重んじた。
不完全なスクリプト言語javascriptは完全なオブジェクト指向の2.0に生まれ変わろうとしたがダグラスクロックフォードの力説により、互換性を重んじる由緒正しいjavascriptの派生へと回帰した。

カオスなwebをレンダリングするwebブラウザーにはオールモストなレンダリングモードを持っている。
多少の構文が間違っていても意味を解釈できればだいたいでレンダリングをしてくれる。

ソフトウェア開発では完全を重んじるプリミティブな思想と、だいたいを許容するスクリプティングな思想が集団または個人の内面で葛藤している。

完全か寛容か、どちらの設計思想が適切かはプロジェクトごとの性質による。
その判断の多くはデベロッパーのセンスに委ねられる。

 

ボードゲームデザイナーは完全であるべきか?

しばしば潔癖なデザイナーや批評家からボードゲームは完璧であるべきだと聞く事がある。
完璧にできないならゲームを小さくすべき。
デザイナーは実装を事細かにすべて説明できなければゲームは失敗している。

果たして、それは本当だろうか?
あるいは事実、そうであろうか?

完全と寛容は内面にどちらか1つしか維持できないと言うものではない。
ときには潔癖症になり、ときには鈍感になることができる。

完璧に拘りすぎることは臆病になり選択肢を狭め、心身を硬直させる。
時として正解が明らかではないことでも、だいたいで前に進めることは勇気へと繋がる。

しかし、寛容を許容しすぎることは目を曇らせ正しさへの追及を怠り、進歩のない駄作を乱造させる。
時として立ち止まろうとも正解を模索する姿勢は成長に繋がる。

完全と寛容は単一の信念ではなく出しどころがありセンスとバランス感覚を必要とする。

 

デザイナーズデザインとファンデザイン

デザイナーがこう遊んで欲しいとデザインしたものをデザイナーズデザインと呼ぶこととして、反対の性質にあたるデザイナーの意図がないまたはデザイナーの意図に反してプレイヤーが勝手に遊び方を見つけるものの呼び名が欲しいと思った。

ぼんやりとファンデザインはどうかと考えた。

ファンは2つの意味にかけていて、意図が足りておらずデザイナーとして未熟で愛好家に過ぎないと言う意味のファン。
ゲームの愛好家であるファンがデザイナーの創造を圧倒する遊び方を見つけてしまった。である。

ふとゲームが100%デザイナーズデザインに染められていることがよいことなのだろうかと考えた。

デザイナーは完璧でないし完璧なゲームなどないと考えるとそもそも100%のデザイナーズデザインなど存在しないと考えられる。
または強気なプレイヤーや批評家はゲームを破壊してデザイナーを圧倒したいと考えていて、その余地があることは彼らを満足させることができる。

もちろん、完璧でなくともまずはしっかりと作られたゲームでなければ話にならない。

だから、オールモスト(だいたい合っている)の姿勢は丁度よいのではないかと考えた。
完璧でなくてもよいことはデザイナーの労力と気持ちを和らげ、プレイヤーと批評家はその隙をついて欲望を発散する。

ではこのオールモストの思想が完璧であるか?

もちろんオールモストにすぎない。